東京滞在期間に入っております。
ありがたいことに毎日色んな人に会って忙しくしております。
GWにプライベートで上京してからすぐ帰り、今月は16日から再上京。
その間に実家で半分のんびりしつつ、自分に課しているミッションもこなしておりました。
昭和10年築の実家は崩壊の一途を辿っており、でもそこで生きざるおえない僕らは生きるためにあがくのです。
両親はあれでこれであれなわけで、とにかく今を生き、地元秋田に地盤を置き生きる兄が幸せになるために、をテーマに僕は実家活動をしているわけです。
両親の荷物を捨てまくっていたつもりでいましたが、実はまだまだ序の口だったわけで。
本腰を入れて断捨離に入った兄弟であります。
ほんとにさ、生きてるだけで物ってたまってくわけで。
両親と兄弟三人。そのいちいちを取っておいたら、物ってたまってくわけですよ。
特に、我が母は、よく言えば物持ちがよく、悪く言えば何も捨てれない人で。
とにかく物が、多い。
引き出物の包装紙、紙袋、食品の缶やら瓶やらまでに及ぶ、「いつか使うかもしれない物」というなのガラクタも、そりゃたくさん。
子供の頃からずっとそこにあったよなぁ、みたいなものまでメスを入れて、とにかく整理。
前回は両親の衣服だの母の本だのを整理していたけど、今回は自分らの物も、容赦無く捨てた。
小学校から高校までの教科書やらノート、兄と姉の習字、僕の水彩画や夏休みの自由研究とか。
ガンダムのゴム人形、カードダス、コンボイのおもちゃ等。笑
高校時代のドカンとかね!
(結構ガチの応援団長でした。)
引き続き両親の服も捨てた。
ゴミ袋は20袋を軽々と越え、田舎の衆人環視機能ではないけれど、ゴミの日にこんなんだしたら
「あや、和賀さんなえで、建て替えするべが!」なんて言われかねないので断念。
(専用ゴミ袋には集落名と家主の名前が必要だから、すぐわかる)
直接ゴミのを受け取ってくれるゴミ処理場へ2往復。
270kg、1000円弱の処理代。
親子40年分くらいの思い出が詰まってるかもしれない物たちは、処理場の穴深くに吸い込まれて行った。
さて。
そんな物持ちのよい母なので。
いつかぶつかる時が来るかもしれない、鬼と呼ばれる日がくるかもしれないと、前の記事で書いたんだけどさ。
泣かれました。
勝手に袋を開けて、中身をとっておこうとする母と、兄貴との言い合い。
兄の名誉のために言っておくけれど、どんな聖人も家族には怒号を飛ばすと俺は思ってる。
血ってのは、尊くもあり、それは面倒な呪縛でもあるから。
親が泣く話をすると、それこそ親を亡くしたような切ない顔をする人が一定数いるけれど、それは家族経験であって。
泣き上戸の母は、ティーンの頃に散々泣かせたので、僕なんかは感覚麻痺してるのです。
あー、泣いてんな。と。
でもね。
正直断捨離開始から、思うところはずっとあったから。
前記事みないなことも書いたしね。
そりゃ、沈痛な気分になりますよ、俺も。
仕方なく、愛する兄貴には悪者になっていただいて、慰め役に回る試み。
家が本当に崩れそうなこと、等しく自分達の思い出も処分していること、とにかく今だ、生きてることが大事で生きてりゃいいことあるし。
あと、金ならあるから新しいの買ってあげるからさ!と。笑
私が悪い、育て方を間違えた、なんても言ってたけどさ。
そーじゃないのよキヨ子。
しょうがないんだよ。
だって、これ全部、ゴミなんだもの。
思い出は、粗大ゴミなんだよ。
と心の中で呟きつつ。
母は意外にけろっとした。
気丈にもゴミを運び始めた。
気丈に、なのか。
ふっと忘れてしまったのかは、わからない。
アルツハイマーの、我が母よ。
そう、世の中思い出の品がなくなることなんかより、もっと切ないことが無数にあるんです。
つくづく、物は残しちゃいかんなと、再確認した。
自分にしか価値のわからない物は、他人にとってはゴミ。
あるいは粗大ゴミ。
ものを作る人間として思う。
それは何も所有物に限らない。
レディオヘッドのトムヨークが昔、CDに対して、「ゴミを増やしても仕方ない」というニュアンスの事をいったように。
創作物もそーなんだよね。
僕が好きなあのキャラもあの歌も、あなたが好きなそれらも、興味のない人からすれば、ヤブ蚊の方が気になる存在だったりする。
付加価値は、自分で与えるものであって、他人がそれを必ずしも享受できるとは限らない。
エンタメについて、付加価値が叫ばれるけれど、それは作り手が与えるのではなく、受け手が付加価値を創出できる環境を作ることではないか。
などと、お仕事の思索に結びつけたくらいにして。
日々増えるゴミとどう付き合って、生きていくかを考える。
思い出は大事だよ。
ても、自重で飛べなくなったら、それは単なるゴミだ。