つれづれぽんぽんのやっほー(限りなくシラフです。)

なんとなく筆を執ったけれど、明確に書きたいことがあるわけではなく。

言葉の断片だけがあるような状態なんだが、書いておく。

 

時間が流れて、あったものがなくなったりした。
それは燃え上がるような情熱であったり、当たり前であったものだったり、わかりやすく夢と呼ばれるものであったり、目的意識であったり、体力であったり、人の命であったりした。

今、自分に何ができるのか、何がしたいのか、何が学びたいのか、何を取り戻したいのか、何を手に入れたいのか、一番何がほしいのか考えたりする。

順調かどうかはわからない。
元気だが人生は常にギャンブルで火の車である。

自分に失望もしたし、希望も持ったし、新しい気分にもなったし、なんだかすべて終わったような気にもなったし、わくわくするような日もあるし、無力感に絶望したりもするし、とにかくなんでもいいから人の喜ぶ顔が見たいと無性に思ってみたりするし、何もしたくなくてどうしようもなくなったりするし、結局のところ上がっているのか下がっているのかわからないものである。

総じて曲がり角であることだけは自覚があり、転換期でありこれまで通りではおそらく消えるだろうと思っている。
そのためのやる気はあるような気もしているし、チャンスもいただいていると思う。
どうなるかでいうと、おそらく大丈夫だと思っている。ここに感謝を。

自分個人の幸いに関しては、結局一番欲しいものがなんであるかを自問自答している最中である。
ただ、ただ一度の挑戦くらいは許されるだろうし、しなければ後悔するだろうとは思っている。
どうせ器用でないのであれば、やれることなどたかが知れているのだから。

個人の力の限界を感じて萎えているような気もしているが、ただの一度も本当に死ぬ気で事を成していないのだからまだ跳ねられる気もするが、そう言っている時点であらぬ可能性にすがっているようでもあるし、おとなしく人の力を借りねばこれ以上の跳躍はないと認めたほうがよいのかもしれないとも思う。

往々にしてそのようなサイクルをかたちを変えながら何年も繰り返し今に至るのであろう。
ただ、ここに残したことは、紛れもなく最新の右往左往である。

ふと胸に湧き上がる言葉がある。

何かになりたかった。

諦観の言葉なのか、二度死んだ過去からの恨み節なのか、この言葉のあとに何か続く予定があるのか。

とんとわからないのだが、人間というものの仕様については本当に物申したいことだらけだ。

かといって仕様変更は叶わないので、自分というプロジェクトの運用ルールくらいはもう少しまともに管理したいものである。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。

でも春はもう終わったのだよ。

もうここからは夏の夜の夢。

どうぶつさんたちだいしゅうごうだわいわい。

みんなでたのしくうんぱっぱのぶんぶん。

おなかぽんぽんぽんのやっほー。

岡崎体育さんが好きになりました。応援しております。

 

赤髪からは以上です。

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カテゴリー: days

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