親の物を、勝手に捨てています。
勝手に、というのはつまり、許可なくということです。
その物達にどんな物語や事情があったのか、僕は一切知りません。
どれが本人にとって大切で、どれがさして大切でないか、分かりません。
選り分ける基準が存在するとすれば、それは僕らにとって必要か否か。
なんとなくヤバそうか、どうか。
そんなことを、少しずつ、やっています。
我が父と母は健在で、毎日一緒に飯を食っています。
会話も成立するし、テレビを見て笑ってます。
何か違うとすれば、年齢が高めな事と、幾分、人間の機能が低下及び損傷してるということでしょうか。
一つ一つ、必要かどうか確認しながら取捨選択をすることは可能ですが、それをする限り僕の目的は達成されないでしょう。
結構な友人の引越しを手伝ってきた経験で言うと、本人による断捨離ほど効率が悪くて結果が伴わないものはありません。
うちの母は、お土産の包装紙一枚丁寧に取っておく人なので、その母に取捨選択をお願いしたら、物の残存率は98%、喧嘩の発生率100%という結果が待ってます。
「とにかく処分する」ことが目的の僕としては、懸命じゃないのです。
僕を無慈悲という人もいるでしょう。
そうです、今まさに、僕は父と母(主に母)の思い出をぶっ殺してる最中です。
殺意の塊。
確信犯で殺人犯です。
弁明の余地はありませんが、動機を述べるなら、「僕らのため」です。
僕らには、兄と姉が含まれます。
親はいつか死にます。
親の荷物も思い出も、残された僕らは背負って行くのです。
ただ、往々にしてそれは財産ではなく、「ゴミ」であることが多い。
悲しいかな、歩んできた人生と、価値観の違いであり、仕方のないことなのです。
とても仲の良い友達やあるいは恋人、職場の同僚でも、それぞれの人生を歩んでいて、趣味も異なる。
あれと一緒です。
でも、血が繋がってる分、めんどくさい。
はっきり言います。
めんどくさい。
この高齢化社会、親の介護は必ず降りかかってくる問題ですが、実はそれとセットで訪れる「親の荷物問題」は、考えておいた方がいい。
と、僕は思っています。
母親の状態的に、もうこの思い出を開けることはないだろう。
という、前提の元に、僕の行動はなりたっていますが、いつか露呈する可能性はなくはない。
その時、僕は鬼の子のように、罵られ恨まれるのかもしれません。
甘んじて受けましょう。
ただ、一つ。
その鬼の子を生んだのは、他でもない僕の母なのです。
僕もいつか子供がほしい。
そんな自分へ、そして多くの子を持つ友人へ。
君の子供は、いつか君のものを捨てる日が来る。
君の価値を、思い出を、殺しにくる。
だからこそ、僕は思います。
どう生きて、何を残して、どこで自分の人生に決着をつけるか。
いつ死ぬかわからない中、あとを濁さず飛ぶことは難しいとしても。
自分の物語の結末くらいは、考えておこうと思います。
鬼の子への蔑みのお言葉、お待ちしています。